柴田励司の人事の目

Indigo Blue メールマガジン

Vol.359 「死」を受け入れること

猫が亡くなりました。5月27日23時5分。横浜の夜間動物病院で。

救急病院の獣医さんによると、おそらく何らかの化学物質をなめてしまい、
それが原因で腎臓が動かなくなってしまったとのこと。
わずか2歳の生涯でした。悲しい。

最近「いのち問答」(香山リカ×対本宗訓 角川書店)という本を読み終えたところでした。
あまりにも多くのヒトが津波で亡くなり、その中に知人もおり・・・、
改めて、"死んだらどうなる?"と考え始めたところ、この本に出会いました。

結論はありません。が、いろいろと示唆を受ける本です。

この本の中で「臨床医学における死とは・・・血中の酸素分圧が低くなり、
二酸化炭素分圧が高まっていく。・・・やがて中枢神経が抑圧されて意識が薄れていき、
心臓が活動を止めるというプロセス・・・。・・・血中の酸素分圧が低くなると
"ベータ・エンドルフィン"と呼ばれる脳内モルヒネが多く産出され、
これが強い鎮痛作用をもたらす・・・。
・・・多幸感の中で旅立ちができる・・・」(P44 )とありました。

また、「死は点でなくプロセス」(第三章)である、とあります。

「近しいヒトの死はとてつもなく悲しい。但し、その当事者にしてみると自然な流れ。
終わりではない。当事者は死に直面するとそのことを悟る。」

これが、私がこの本から得たメッセージです。
(著者たちのメッセージとは違うかもしれませんが。)

今回の津波やうちの猫のような死に方は"自然な流れ"ではありません。事故です。
しかし、そうであっても死の直前にこの"悟り"があるのではないか、と思いました。
それを論理的に説明せよ、と言われてもできません。直感的にそう思いました。

そう考えていたので、猫(「琥珀」といいます)の死を告げられたときも、
ものすごく悲しかったですが、その「死」を受け入れることはできました。


大学時代にアルフォンス・デーケン教授の「死の哲学」という授業をとっていました。
大学の講義はほとんど記憶に残っていません。が、この講義だけは記憶に残っていました。
ヒトが末期がんの告知など、自分の死に直面したときに、どのような心理プロセスを取るか、
当時は頭で理解していましたが、今ではその本質的な意味がわかります。

私自身はまだまだ自分の「死」を意識することはありません。やるべきこと、
やりたいことがたくさんありますし、いわゆる"お役目"もまだ完結しているとは思えません。
まだまだです。

そう考えると、身体を整えること(健康であること)に、より真剣にならねばならないと
再認識しました。食生活、睡眠、運動。これらをきちんとやらねば。


40歳のときに軽い脳梗塞をやりました。それから信頼できるドクターの薦めにより
「魚と野菜」中心の食事に変えました。3年間は「肉断ち」しました。
その後、血液検査の値が普通のヒトよりも良くなったので、「肉も食べる」に戻して
現在に至ります。

運動については、朝20分程度走る、時間があるときにはフィットネスクラブで泳ぐ。
これを習慣にしていました。

が、最近、ちょっとサボり気味だし、外食時のメニュー選択がやや緩くなってきていることを反省。

やるべきことがある、と思うのなら、その体制(身体)を維持すべき、と改めて思いました。

昨日、数日前から左腰に痛みがあるので、会社近くのカイロプラクティスに出掛け
治療してもらいました。

「柴田さん、ずいぶん身体のケアませんね。股関節とかガチガチですよ。」

確かに。数年前からあぐらがかけないのです。かつて「Oリング治療」なる不思議な施術で
一時的に良くなっていたのですが、今は全くダメ。

ちょうど会社から徒歩1分の場所にいいところを見つけたので、これから空き時間に治療を
してもらうことにしました。といっても、1週間のうちに会社にいる時間が少なく、
しかも空き時間などほとんどないので、治療をスケジュール化することにしました。


朝一番で近くのペットの葬儀場に電話。立会の下、火葬してもらうことにしました。
数年前にも同じ火葬場で当時飼っていた「龍之介」の葬儀をしてもらいましたが、
先方がそのことを記録していたので、少し安心しました。

電話口の男性の真摯な対応と落ち着いた声にありがたく思う土曜日の朝です。